山添 拓 参議院議員/弁護士 東京選挙区候補 日本共産党

国会報告

2022年・第208通常国会

刑法改定案について参考人質疑を行いました。

○参考人(今井猛嘉君) 皆様、おはようございます。御紹介いただきました法政大学の今井でございます。
本日は、本委員会で意見陳述を行う機会を与えていただき、大変光栄に存じます。
刑法等一部改正法案、以下、これを改正法案と略称しますが、そこには数多くの建設的な改正案が含まれています。
私からは、レジュメに沿いまして、次の二つの事項に絞り意見を申し上げます。その第一は、罪を犯した者の改善更生、再犯防止に向けた処遇をより一層充実させるための諸制度の導入であります。その第二は、侮辱罪の法定刑の引上げです。
レジュメの二の方、まず第一の点について意見を申し述べます。
まず、二の一の部分でありますが、改正法案は、現行の懲役、禁錮を廃止し拘禁刑を創設すること、拘禁刑の受刑者には、その改善更生、再犯防止を図るため、作業を行わせ、又は必要な指導を行うことができるものとしています。
これは、現行のいわゆる自由刑という制度を抜本的に改正するものですが、拘禁刑受刑者に対して作業又は指導を行うことができること、その趣旨は受刑者の、繰り返しになりますが、改善更生、再犯防止を図るためであることが明記されたという点は大いに評価されます。
作業又は指導は拘禁刑としての刑罰の内容に相当しますが、いかなる不利益賦課を刑罰として理解するかについては、刑罰の正当化根拠、すなわち刑罰目的論との関係で整理する必要があります。
この点がレジュメの二の一に書いてあるものでありますが、皆様御案内のことかと思いますが、若干説明させていただきます。
応報刑論というものは、犯罪とは一定の規範に違反することであり、刑罰は当該規範違反を是正するため又は正義を確認するための反作用であり、刑罰を科すことでどのようなメリットがあるかを問うことなく、犯罪の程度に比例した不利益処分を科すことを認める見解です。この理解は、犯罪による法益侵害の質と量を超えた刑罰を科すことはできないという比例性原則を導く点では優れています。しかし、刑罰を科すことにより期待されるメリットには着目されないため、刑罰の具体的内容を検討する際の道具概念としては不十分です。
そこで、従来から、刑罰を科す目的は何かという、より目的論的思考が展開されてきました。その中で、刑罰を科す目的は、受刑者の再犯予防にあるとする抑止刑論、拘禁中は受刑者による犯罪が制御できる点に価値を見出すとする無害化論、受刑者を犯罪をしない市民として社会に復帰させる点に価値を見出す社会復帰論などが主張されてきました。
これらを整理しますと、目的刑論という大集合の中に他の三つの小集合が含まれており、抑止刑論と無害化論は相互に独立して主張可能ですが、そのいずれもが社会復帰論と接続可能だということになります。したがって、刑罰内容を具体的に規定する際には、抑止刑論と無害化論の視点がとりわけ重要となります。
抑止刑論からは、受刑者にその再犯を予防するのに資する様々な措置の義務付けが導かれます。それは、例えば他者、特に潜在的被害者の視点の理解を促進するための認知行動療法や、経済的困窮から犯罪に出ることを防止するための職業訓練的な措置です。職業訓練的措置には一見すると有償役務の提供のように見えるものがあるかもしれませんが、労務提供がなされているわけではありませんので、強制労働との評価は妥当しないと思われます。
他方で、無害化論からは、一定期間、受刑者を社会から隔絶された施設に収容することで、その間の犯罪実行を物理的に不可能にするということが正当化されます。
このように考えますと、改正法案が拘禁刑の内容として想定する作業又は指導を受けることは、不利益的制裁として適切な事項を選択するものであると評価できます。
次に、二の二に移ります。
懲役、禁錮は、受刑者の自由を制約する処分として、従来、自由刑と呼ばれてきました。しかし、この名称では自由を付与するとの語感もあるため適切でないとの指摘、また過酷な制裁を科すことを当然視するかの時代がかった語感もあるとの指摘がかねてよりありました。
受刑者の自由の制約は受刑者が拘禁される結果として生じるものですから、端的にこの関係に着目して拘禁刑と表現することは、国際的な用語法にも一致する適切なものだと思われます。改正法案では、拘禁の目的は、繰り返しになりますが、改善更生と再犯防止に求められています。受刑者の再犯を抑止することは、抑止刑論と、また社会復帰論にも対応しています。また、拘禁中に個々の受刑者の特徴を踏まえ、犯罪抑止に効果的と思われる処遇である作業又は指導を義務付けることは、これも抑止刑論と社会復帰論から正当化できるものであります。以上の点は重要な点と思われますので、重ねて申し上げる次第でございます。
次に、レジュメの二の三に移ります。
刑の執行猶予制度の拡充でありますが、改正法案では、これを含めて数多くの生産的な提言がなされていると思われます。まず、この刑の執行猶予制度に関わるものでありますが、例えば再度の執行猶予の適用範囲の拡大が提案されています。これは、刑法第二十五条第二項本文の一年を二年にするとの改正案ですが、これによりまして裁判所にとって執行猶予を選択する可能性が広がり、個々の事案への適切な対応を可能にするものであります。すなわち、再度執行猶予に処せられるとその取消しがなされ拘禁刑が執行されることがないように、受刑者は日々の生活の中で、受刑者といいますか有罪認定された者は日々の生活で一層の注意を払うことから、犯罪抑止効果も期待できます。また、社会内処遇が継続されますので、家族、勤務先等のリエゾンが切断されることもなく、社会復帰への努力が無駄にならないという点でも有益でありますので、このような改正は支持できると思います。
また、猶予期間満了後の刑の執行の仕組みも考察されて、提案されております。詳細は既に御案内のことかと思いますが、このような執行猶予の取消しという不利益を考慮した再犯防止効果を執行猶予期間満了まで維持することは、本来もっと早く検討されるべき事項であったと思われますが、今回の改正は適切だと思います。
再度の保護観察付執行猶予を受けた者に対する処遇の強化、ここも、時間の関係で詳細は申せませんが、社会復帰を円滑にかつ適切に行っていくために保護観察の一層の充実というものは避けては通れない課題であり、適切な御提案だと思っております。
レジュメの二の四のところも同じような評価が妥当しますが、項目だけ述べさせていただきます。
受刑者に対する施設内・社会内処遇の手法の改善策でございますが、具体的には、受刑者等の内省を深めさせるよう、被害者の心情を受刑者等に伝達する施策、出所後の支援が必要な刑執行終了者等に対する一層の援助等が提案されています。いずれも、これも先ほどの刑罰目的論から推察しても理解可能な施策であります。刑の再犯を抑止し、社会に復帰させるためには、ただ懲役を、従来の言葉で言う懲役を科せばいいというものではありませんで、個々の受刑者に応じた手厚いテーラーメードの施策が必要であり、そのようなものを実現する御提案だと思っているところでございます。
時間の関係がありますので、レジュメの裏面に移らせていただき、侮辱罪の法定刑の改正について意見を申し述べます。
結論としまして、私は、ここに書きましたように、今回の改正案は時宜を得たものと考えております。その根拠を申し上げますが、まず立法事実でございます。この提案には、それを基礎付ける立法事実が存在すると思われます。御案内のように、近時、SNS等を用いて特定人に侮辱的表現が集中してなされ、その方がお亡くなりになるという痛ましい事件が起きました。その結果、二名の方が科料九千円に処せられましたが、これが適切な事件処理であったか、様々な意見が示されているところであります。
そこで考えますと、侮辱罪の保護法益は名誉毀損罪のそれと同じであります。いずれも、人の外部的名誉としての事実的名誉、すなわち社会で現に通用している人に対する積極的な評価が保護法益です。この法益が公然と事実を摘示する方法により侵害される場合には名誉毀損罪が成立し、事実摘示はないが表現が公然となされる場合には侮辱罪が成立するものと解されています。保護法益が両者で同じであるならば、侮辱罪の現在の法定刑は名誉毀損罪のそれと比べて低過ぎるのではないかが問題となります。
この問題状況から侮辱罪の科刑状況を確認いたしますと、これは先生方既に御案内のところだと思いますが、法制審議会刑事法部会で配付された統計資料等によりますと、従前は侮辱罪による立件、処罰、確定した判決は数少なかったものでありますが、例えば、平成二十八年から令和二年までは有罪認定された者のうち拘留に処せられた方はおられません。ここからは、そうした有罪認定者の刑事責任が軽かったという解釈と、拘留には執行猶予を付すことができませんので、短期間とはいえ拘禁することを裁判所がちゅうちょしたとの解釈が可能です。後者の観点からは、執行猶予が可能な刑種を追加しようとする改正法案の選択は支持されます。
他方、科料に処せられた者は合計百二十名で、一年平均約二十四名でありますが、それらの方の九割以上の方が九千円以上の科料に処せられています。科料は一万円未満の罰則でありますから、侮辱罪で有罪認定された方を科料で対処することはそろそろ限界に近づいているという評価も可能であります。その点を考えますと、罰金刑を追加するという必要は認められまして、改正法案は妥当だということになります。
次に、三の二に移ります。
改正法案には批判的意見も多く寄せられておりまして、ここが大変難しいところかと存じております。そこで若干検討いたしますが、第一の批判といたしましては、侮辱罪の刑に懲役刑を追加すれば、表現の自由を脅かすことになり不適切であるというものがあります。これは傾聴に値する御意見でありますが、その御意見の中で、侮辱罪に刑法二百三十条の二に相当する規定を導入すべきであるという主張もなされています。ここも、なるほどと思う点ありますが、後でもまた説明する機会があるかと思いますが、刑法二百三十条の二に相当する規定を導入しますと、過失名誉毀損罪及び過失侮辱罪なるものが処罰されることになります。過失によって侮辱罪まで処罰するのか、これは過剰な処罰範囲の拡張であると考えますので、私としては刑法三十五条による対処を支持したいと思います。
刑法三十五条は正当行為につき違法性の阻却を認める規定ですが、違法性の阻却は行為により優越的な利益が保護される結果が生じた場合に認められます。具体的には、侮辱的表現がなされた場合、対象者の事実的名誉が害される危険が生じますが、他方で、代表民主制の基礎となるべき自由な意見公表がなされたと言われる場合には、表現の自由として憲法二十一条の保護を受ける行為がなされているわけでありますから、優越的利益があると認められ、正当行為として違法性が阻却されると思います。
違法性阻却が認められない場合でも、直ちに侮辱罪で処罰されるわけではございません。表現をした者の責任が阻却される場合はなお考えられます。
侮辱罪では、名誉毀損罪と異なり、摘示事実の具体性は要求されていませんが、事実を摘示する際に、すなわち表現の前提となる事実を確認する際に、表現者がその真偽をできるだけ調査し、真実であると思って当該事実を摘示した場合には、誠実な事実調査に基づく表現であり、侮辱的表現をしているとの認識が欠けますので、侮辱罪の故意が阻却されるということになります。この点も留意していただきたいと存じます。
第二の批判的な見解といたしまして、インターネット上の誹謗中傷被害には、民事上の救済手段を一層充実させて対処すべきであり、侮辱罪の法定刑を加重する必要はないとの批判がございます。これも大変傾聴に値するものでありますけれども、日本ではなかなかこの基礎が欠けていると思います。
後で、次に説明するように、例えばイギリスのように侮辱的行為に対する民事的な制裁が十分機能していて、オーバースペックになっているような国においてはこのような主張が受け入れられる余地がありますが、日本ではそうではありません。
そこで、イギリスのことを若干申し上げます。
イギリスにおきましては、近時、侮辱罪が廃止され、他方で、侮辱に係る民事訴訟法の改正もなされております。これは、イギリスにおきまして非居住者同士の名誉毀損に係る民訴が大量に提起されまして、これは行き過ぎではないかということで、まず民事訴訟法が改正されました。具体的には、侮辱に係る民訴の提起の要件において、被告の表現により原告に重大な損害が発生する可能性があったということが規定されました。
これと併せまして、既に古くなったコモンロー上の侮辱に整理されていた犯罪四つが廃止されました。コモンロー上の犯罪というのは大変古い歴史を持っておりますが、表現の自由への配慮が当然ながら不足していた時代の残滓と言われていたもので、早晩廃止が必要と言われていたものをこの機に廃止したものでございます。
こうした一連のイギリス法の改革に着目しますと、日本とは異なる歴史的、文化的背景に由来する改正であったと思われ、日本法に直ちに導入することはできないと思います。すなわち、国王等政治権力に対する批判を過酷に弾圧するために用いられてきたコモンロー上の関連犯罪が存在した一方で、民事訴訟による損害賠償請求も活発で、あるときには目に余る濫訴的な利用もなされている社会においてはこのような改正も受け入れられる余地があると思います。
翻って、日本には、名誉毀損ないし侮辱的表現が民訴により抑止されるという状況は存在しません。そのため、そうした表現に対する刑事法的抑止力の強化が要請されると思います。
最後に、三の三でございます。
今述べたとおりでございますが、私は、このように日本における侮辱的行為を抑止するためには刑罰を使うことが必要であり、かつ、法益を同じくする名誉毀損罪との比較からも、法定刑の引上げが正当であると思うところでございます。
最後、少し駆け足になりまして大変失礼いたしましたが、私の意見は以上でございます。
御清聴、誠にありがとうございました。
○委員長(矢倉克夫君) ありがとうございました。
次に、山田参考人にお願いいたします。山田参考人。
○参考人(山田健太君) おはようございます。発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。専修大学ジャーナリズム学科の山田健太です。
本日は、主として侮辱罪の在り方につきまして、言論法の立場から意見を申し述べさせていただきます。
皆さん、スマートフォンはいつ買われましたでしょうか。思い出していただければ、東日本大震災のときには、まだほとんどの方が携帯自体を持っていないか、持っていてもガラケーと呼ばれるような携帯電話でした。それが、二〇一五年には半数を超え、同時にSNSが広く普及し始め、それとともにネット上での誹謗中傷が社会問題となってきたわけです。あえて言えば、ここ五年ほどの新しい社会問題と言えます。これに対し、よく野放しとか無法地帯という言い方がされています。今回の法改正も、ようやく法がネット対応してくれるという声も紹介されております。
しかし、果たしてそうでしょうか。ここ一、二年の間に急速にインターネット上の法整備が進んでいます。
昨年、プロバイダー責任制限法が改正され、今年一月からは具体的な運用も始まっています。警察庁や総務省が指導する業界とともに行う共同規制も、より細やかに、そして広範囲に、さらに強力に運用が始まってもいます。プラットフォーマーも、ようやくではありますが、自らを表現者として認識するに至り、扱う情報に社会的責任を負うことを公的にも表明し、また人もお金も掛ける形で自主的な取組も始めています。
さらに、フェイクニュースに惑わされないぞといったユーザーの意識も大きく変わりつつあります。さらに今、ネット環境は急速に変わって、まさに今、ネット環境は急速に変わっているのです。確かに、デジタル庁もできてまだ一年ということになると思います。
新しいデバイスであるスマホ上で、新しいメディアであるSNSにおいて、行き過ぎた表現があることは事実です。しかし、残念ながら、みんなが幸せな環境を享受するような秩序が整うまでの間、多少の混乱をするのは新しい技術が誕生した時期の宿命であり、私たちが通らざるを得ない道です。そのときに過剰反応して必要以上の規制をつくることは、そのメディアの良さを殺すことにもなりかねませんし、社会全体のバランスを損なうことにもつながります。今回の場合でいえば、何よりも問題は、表現の自由の話であることにあります。今日現在、ネットは決して無法でも野放しでないことをまずは冷静に見詰め直していただければと思います。
もちろん、インターネット上の誹謗中傷で苦しむ方々を少しでも減らしたいと思うのは当然であります。その一つの方策として、法規制を強化することによって犯罪行為を抑止するという選択肢は確かにあります。一方で、既に本国会でも多くの指摘があるとおり、そのデメリットにどのようなことがあるかについてはよく吟味する必要があります。
一般に、法規制、とりわけ刑事罰を重くすれば犯罪の抑止につながり、発生件数は減少するでしょう。これは間違いありません。しかし一方で、そのために私たちの社会のゴールである民主主義が壊れることがあってはなりません。目の前の個別具体的な被害の救済はとても大切なことでありますが、それによってより大きな社会的損失を生むことがあってはならないのです。とりわけ、今回の場合、その壊れる可能性があるのは、民主主義社会の根幹である言論の自由、とりわけ批判の自由です。
昔から、表現の自由はガラスの城に例えられてきました。それは、一旦ひびが入ると、それがどんなに小さい傷であっても徐々に広がり、そして最後には全体が壊れてしまうという性格を持っていること、そして一旦入ったひびは修復できないことを指し示しています。取りあえず一旦試しにやってみて、もしうまくいかなかったら後でやめればよいというわけにはいかないのです。一度失われた表現の自由、批判の自由は元に戻らないことを、私たちはこれまでの歴史から学ばなくてはなりません。
最初に、一ですが、批判の自由は民主主義の根幹であることについて確認をさせていただきたいと思います。
表現の自由が民主主義社会の基盤を成すことについては、ここで改めて言うまでもありません。その中で、批判の自由の拡大の歴史こそが表現の自由の歴史でもあります。
日本に限定してお話をするならば、戦後、現在の憲法が制定され、名実共に表現の自由が保障される時代を迎えました。同時に、刑法の名誉毀損罪には新たな条項が加わります。二百三十条の名誉毀損罪の追加条項である二百三十条の二の免責要件と言われるものです。これによって、たとえ為政者を批判しても、それが公共性、公益性を有し、真実であることを証明できればその自由な批判を保障することが定められたわけです。それまでは、天皇、政治家、高級官僚を批判することは罪でした。むしろ、事実であれば事実であるほどその罪は重かったとも言えます。
しかし、戦後、百八十度異なり、民主主義社会のためには、公人を自由に批判できる環境こそが大切であるとされたのです。その後、判例上でも批判の自由の範囲は徐々に広げられ、今日に至っています。そして、国際的な潮流でも、国連自由権規約委員会の一般的意見でも、名誉毀損等については非犯罪化を検討すべきといった見解も出されているところであります。それは、国家の判断で為政者を批判する発言を刑事罰で厳しく取り締まることの危険性が大きいことを表しています。にもかかわらず、今回の改正は、こうした流れに真っ向から逆らうものでもあると言えます。
日本の場合、いわゆる広義の名誉毀損法制は、中核の名誉毀損罪のほか、威力業務妨害、信用毀損、そして侮辱です。この侮辱罪は、名誉毀損罪の弟分のような存在ですが、事実の摘示がない抽象的な表現を幅広く対象にする代わりに、制裁である罪を極力軽くしバランスを取ってきました。これは明治の制定時からの制度設計です。
同時にまた、名誉毀損自体も公権力の行使を抑制的にすることで、表現の自由への配慮を実現してきました。侮辱罪についても同様で、しかも侮辱の範囲が曖昧であるがゆえに、より恣意的な権力行使が可能であることを考慮し、より慎重な運用がなされてきた結果、既に審議されているように、過去の検挙件数が少ないという結果を生んできたわけであります。
今回の法改正は、こうした制度設計や運用を大きく変更するもので、名誉毀損と大きく変わらないような罰則に強化するにもかかわらず、その定義は曖昧なままで、しかも免責要件を有しないという意味では三重の過ちを犯していると言わざるを得ません。
二つ目には、大衆表現こそ一般市民の大切な表現活動であるということについてお話をしたいと思います。
今般、審議に何度か登場してくるやじ行為、あるいはデモや集会、立て看やポスター、チラシなどは、一般に大衆表現と呼ばれるものです。別の見方としては、原始的表現、プリミティブ表現と呼ぶこともあります。一般市民がお金や手間を掛けることなく、メディアを持っていなくても気軽に行使可能な表現形態であります。SNSも時にネットデモと呼ばれることがあるように、今日的な大衆表現という側面を持ち合わせています。
この表現行為の特徴は、ショートメッセージであることが多く、また感情的な表現になるような場も多いと言えます。その結果、時には言葉が激しくなったり汚い言葉になったりもします。会社を首になった労働者が社長に抗議する場面などが当たります。そして、政府や政治家に対する抗議活動も同じです。国会や官邸前でも、あるいは沖縄の地でもよく見かけるところであります。
そうした激しい表現活動が特別な感情を社会に見せている側面を否定できません。もしかすると、それは政治家である皆さんにも共通しているのではないでしょうか。言わば、やじ、デモ、チラシへの偏見です。大衆表現について、一般社会から逸脱した行為である、負け犬の遠ぼえだ、金で動く人たちでプロ市民だ、一部過激派の運動にすぎないなどなどです。
なぜ迷い猫を捜しての張り紙がオーケーで戦争反対はNGなのか、もう一度立ち止まって考えてみる必要があります。そば屋の宣伝チラシはよくて政党活動報告が駄目なのはなぜなのかであります。同一線上に問題とされる侮辱表現行為があります。
そして、こうした運用上の差異を生むのは、取り締まる者、すなわち行政の恣意的な判断となっています。新聞やテレビを直接制約するのは好ましくないけれども、面倒くさくてうるさい大衆表現は多少厳しめに制限しても構わないという意識が世間一般にないでしょうか。
侮辱罪の適用対象は、多くの場合、こうした大衆表現であります。実際、法制審でも、侮辱的表現は低位な表現で、保護する必要がないという発言があり、それが部会の空気を支配しているような印象さえ受けました。
表現の自由は必ず周辺から制約が始まります。言わば、社会の空気感で多くの人が気にしないところからです。まさに、侮辱表現であることを理由に大衆表現が恣意的に刑事罰の対象として取り締まられることは、表現規制の典型例でもあり、批判の自由の制限の始まりであります。
三つ目は、表現規制の特徴である曖昧さは自由拡大の方向で使うことの徹底であります。そして、表現、法規制は最後の手段であることをこれまで私たちが守ってきた大原則でもあるということをお伝えしたいと思います。
さきにも触れましたが、侮辱は低位とのラベリングがなぜ危険かといえば、誰がどういう状況で言うかを考えると想像付きます。
確かに、強者から弱者への侮辱的言動は許し難いものです。その一つが、ネット上のマジョリティーの側から発せられるマイノリティーへの人格否定や罵詈雑言です。実際は情報発信者自身も社会の強者とは言えない、必ずしも言えない場合も少なくないのですが、匿名という殻に守られていることで強者の立場に立てるという構図が生まれています。
一方で、弱者から強者への典型が、一般市民から政治家、労働者から使用者、マイノリティーからマジョリティーへといった発言です。それらは往々にして、言葉が多少汚くなることも強い表現になることもあります。しかし、それらの多くは、勇気を振り絞りやっとの思いで口にした、言わば心の叫びとでもいうべき必死の抵抗でもあるわけです。その場合、強者は、反省のきっかけにこそすれ、それを力で封じ込めることがあってはならないのです。
それを考えた場合、両者にもし同じルールを当てはめるならば、後者の心の叫びが罰せられないようにすることが大切なことは言うまでもありません。これまで罪をあえて重くしてこなかった理由を私たちは思いをはせる必要があります。こうした少数者の意見が出やすくすること、強者に対して物言いがしやすい環境を用意してこそが、民主主義の懐の深さでもあります。
言うまでもありませんが、もう一つの後者の発言を守る方法が免責要件と言われているものです。これについてはレジュメ右側のお手元の図を参考になさってください。
①は、一般的な刑事罰のありようで、境界線を境に、やっていいことと悪いことがはっきりしていることを表しています。そして、②のように、一線を越えると罰せられます。しかし、③で分かるように、表現活動の場合は、限界線が明確でないため、萎縮効果が働き、手前で自制するのが一般的であります。そこで、④にあるように、批判の自由を最大限行使できるように、限界を超えられる工夫を施しています。これが免責要件です。その結果として、⑤に見られるように、目いっぱいの批判が可能になるわけです。ただし、往々にして、行政等が新たな限界線、境界線を本来よりも手前に作ることがあります。これが⑥の状況と言えます。
それからすると、今回の侮辱罪の強化は、適用対象を変えていないということでは限界に変更がないというのが政府説明でありますが、実態として、政府が同時に繰り返し説明しているように、抑制効果を期待しているというわけですから、まさに壁自体を手前にずらす効果を生むことになるわけで、最もやってはいけないことであることが分かると思います。
この意味するところは、今回の改正が、批判の自由拡大のための工夫の成果である免責要件を有しないという危うさを持つだけでなく、罰則の強化ということによって全く逆に自由の限界線を引き下げる効果を生むという意味で大きな欠陥があると言えます。しかも、行き過ぎた表現行為に対処する場合には法規制は最後の手段であること、どうしても必要な場合もより制限的でない方法を取ることも、規制ルールの大原則としてこれまで国会が守ってこられた大切な規範です。
最初にお話ししたように、この一年で様々なネット表現ルールの改定がなされ、その効果も検証がされていないうちに最後の手段に踏み込むのは、勇み足と言われても致し方ないのではないでしょうか。
さらに、本当はもう一つ、民事訴訟を含めた表現活動に対する影響についてもお話をしたかったのですが、この点については、時間が参っているようですので、また別の機会にとさせていただきます。
以上、今般の刑法改正が持つ民主主義社会への影響、表現の自由への関係についての大きな話をさせていただきました。
私は、本法案に反対の立場であり、いま一度ゼロベースから誹謗中傷抑制のために何が必要なのかを議論いただきたいと思うわけでありますが、もし改正案が成立した場合においても、その運用において誤った方向に進み、私たちが大切にしてきた民主主義社会が揺らぐことがないよう、様々な運用可能性を十分に吟味し、可能な限り事前に歯止めをつくっておくことも立法作業の重要な役割であると思っております。
また、個別具体的な法条文の問題については、正当行為で運用上免責されるのかとか、繰り返し確認されている適用対象が変わらなければ問題発生しないのか、あるいは統一見解や衆院本会議にあったように、現行犯逮捕されなければ問題は解消するのかなど、是非皆様からの質問の中で触れる機会があれば幸いです。最初に指摘した誹謗中傷対策としてより効果的な方法として今何をなすべきか、その解決策についても是非お答えができればと存じます。
委員長始め法務委員会の皆さん、今こそ良識の府である参議院の意義を発揮していただきたいと思います。政治家としての良心を示していただきたいと思います。
冒頭お話ししたように、目の前の行為に過剰に反応することで、全体状況、森を見失うことは立法府が一番やってはいけないことではないでしょうか。皆さん方がこの七十七年間守り育ててきた民主主義を是非とも引き続き守っていただきたいと思います。皆さんの手で批判の自由を奪い、民主主義を壊すボタンを押さないでいただきたい。
自らの地位を守り批判をさせないための悪法を作ったということを記録に残し、後世に引き継ぐことについてためらいを持っていただけると強く信じております。
以上で意見陳述を終わります。ありがとうございます。
○委員長(矢倉克夫君) ありがとうございました。
次に、石塚参考人にお願いをいたします。石塚参考人。
○参考人(石塚伸一君) 龍谷大学の石塚と申します。よろしくお願いいたします。
研究者として呼ばれていますので、ポレーミッシュに議論したいと思います。
今井先生のレジュメを御参照いただきます。二の二の一のところです。
確かに、刑罰の目的は、応報と、応報刑論と目的刑論に分かれます。刑罰論はこの二つで展開してまいりました。
本日、目的刑論の中で、刑罰は犯罪の抑止、無害化、社会復帰に役立つものであるという御発言がありました。そのとおりでございます。既に犯罪を犯した者がいて、その人が二度と犯罪を犯さないようにするためには、特別抑止、特定の人に対して犯罪を犯さないようにするという効果があります。閉じ込める無害化、威嚇する抑止、特別抑止と申します。社会復帰のための諸手段、これもそうです。
ただし、一般市民が犯罪を犯さないようにするためには、刑罰は一般抑止あるいは一般予防という効果があります。つまり、刑法典に明確にやってはいけない犯罪と刑罰が書いてあれば、字の読める教育の進んだ社会では犯罪を犯すということを思いとどまります。本日、今井先生のお話の中にはこの一般予防のことの言及がありませんでした。
そういう観点から見ますと、私が今日配付させていただいた資料は、まず一番目のところですけれども、刑事政策学研究者の声明と書いてあります。今井先生は刑法の大家でいらっしゃいますが、私どもは刑事政策の研究者です。日本の刑事政策は、明治以来、刑政仁愛主義、仁義礼智信の仁です。愛は愛情です。人を大切にしながら、人の道を大切にしながら愛情を持って罪を犯した人たちに接する、そういう原理で成り立ってまいりました。
陸奥宗光という政治家がいらっしゃいます。国事犯として刑事施設の中に収容されていた御経験があります。その方は、元老院に申し出て、蘆野徳林という方の、儒学者でいらっしゃいますけれども、無刑録、無いという字に刑罰、記録の録でございます、無刑録という古い本を復刻するようにというふうに提案し、これが日本の刑事政策にとって非常な重要な資源になっております。
無刑録には、刑は刑なきを期すと書いてあります。人を処罰するのは将来的に刑罰が要らなくなるようにするためだと、その意味では矛盾を含んでいるというわけです。私の中央大学時代の先生である、恩師である八木國之先生は常にそのことをおっしゃっていました。刑罰は刑罰であるがゆえに持続するのではなく、刑罰は最終的になくなることを目指した制度なのです。
戦後、この刑事政策に基づいていろいろな方法が講じられてきました。戦前、大きな失敗を私どもは刑事政策でしております。正木亮という矯正局長を務められた刑事政策家がいらっしゃいます。立派な方です。戦後は死刑廃止についていろいろと活動されまして、死刑は日本の恥だというふうにおっしゃっています。
その方は、戦前、労働改善法というナチスの法を、これはすばらしいという論文を書かれています。労働をもって人を改善するという考え方はすばらしいというものです。懲役刑に一元して、一元化して、労働によって、懲役によって人を改善すれば犯罪はなくなるという考え方でした。当時の時代の流れの中では、それはまあある意味真っ当なものであったと言えると思います。
しかし、戦後はこのような考え方は捨て去られました。労働は人を教育するためのものではありません。その人の自己実現をするための一つの方法でしかないわけです。そのような考え方が広がりまして、国連の被拘禁者処遇最低基準規則というような原則というのがありますが、これは一九七〇年頃の日本の監獄法、刑法改正のときに非常に大きな手本となったものです。
今から五十年前、まあ五十一年前、二年前になりますか、京都で会議が開かれました。国連の犯罪防止会議という会議です。で、そのとき日本はアジアのリーダーになって、刑法を最低基準規則の方向に進めるということで、アジ研と呼ばれるアジア極東犯罪防止研究所というところで、研修所で、そこでアジアの人々のその矯正の力をアップするという努力をされてきました。
そして、二年前本当は開催するはずだったんですが、二回目の京都会議というのが開かれました。犯罪防止及び刑事司法会議という会議でしたが、そのときに、この拘禁刑の改正というのをなされるということを法務省は一切おっしゃっていません。なぜか。これは、まさに今の世界の矯正の流れに反しているのです。
私たち刑事政策の研究者が声明を出させていただいたのは、この法案が、刑法改正です、刑法の改正です。一般市民に刑罰とは何か、犯罪とは何かを告げるための法改正であるにもかかわらず、法文の出来が極めて悪いのです。極めて悪いのです。
先生方見ていただくと分かると思いますが、この私のレジュメの十一ページ、資料七と書いてありますが、今回の法案の拘禁刑についての十二条の規定がございます。十二条の一項は分かります。二項も、拘禁刑は刑事施設に拘置する。自分が犯罪を犯すと刑務所に入ることがあるんだな、分かります。
三項、御覧になってください。拘禁刑に処せられた者は、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、又は必要な指導を行うことができる。誰ができるのか。この文章を読んで、誰ができるのか分かる一般の国民はそうたくさんはいらっしゃらないと思います。私は改善の指導してほしいですよと言ったら、その方が認めていただけるという意味なのでしょうか。私は働きたいと言ったら、私は働けるという意味なのでしょうか。
これは、刑罰執行、すなわち行刑における法律の規制を解釈している者が読めば、これは、刑務所長は、が主語だということが分かります。刑務所長は、拘禁刑に処せられた者に対して、改善更生を図るため、必要な作業を行わせたり、あるいは必要な指導を行わせたりすることができるというのは、刑務所長ができるということなのです。一般国民にこういう犯罪、こういう刑罰が科されますよということを示す刑法典です。刑法典にこのような規定を設けることは、極めて出来の悪い条文だというふうに私どもは考えました。
そこで、元に戻っていただいて、声明の中では、まず、この法案が提案された経緯について説明した後、国会においてこの法律案を真摯かつ慎重に御審議いただきたいということを要望しております。
次に、刑罰制度に関しては、関連学会、まあ刑法学会です、刑法学会において科学的かつ真摯な検討、国民の議論を踏まえて変更の可否を検討すべきだと。
刑法学会に、今までの刑法改正の場合には、こういう改正をしますというふうに法務省の方から提案、作成者の方がいらして説明をされました。この前の処遇法ですね、監獄法の改正の際には、現在、検事総長の林眞琴氏がいらっしゃいまして分科会で説明をされて、私も質問をしてお答えをいただきました。そういうことをした上で、刑法学者はこういう意見を持っているんだということを学ばれた上で法案を提出されるという経緯を踏んでいます。
ところが、今年は、今回の案は、三月に閣法として出たときに私たちは初めてこの法案を見ました。五月に刑法学会ありましたが、その際も、分科会の第三部会は刑事政策の部会ですが、その際に若干の説明があっただけで、法務省の方からの説明はありませんでした。是非慎重な審議をして、私どもがこの法案をもう一度検討する時間が欲しいということでございます。
法案の内容に関しましては、まず、三ページ、三という足下の番号がある(2)ですが、まず第一に、懲役刑が実際上重くなる可能性があるということです。先ほど申しましたが、懲役刑は、拘禁して、定役とかつては言っていましたけど、所定の作業を課す刑罰です。必要的です。必ずします。それに改善の指導をするということが加わるのか、加わるのであれば重くなります。
第二番目に、禁錮刑と拘留刑は、身体を拘束する、刑事施設に収容するというだけの刑罰です。これがなくなるということでしたから問題はないように見えるんですが、違います。現に、拘禁刑や拘留刑、先ほどお話ありましたけど、拘留刑はほとんど科されていませんけれども、禁錮刑や拘留刑に処せられている現在の受刑者の方、その方にとっては、同じ類型の行為を犯した方にとっては重罰化になるんです。じゃ、どういうときに禁錮刑は使われているかというと、あの池袋で大きな事故を起こした年配の方、九十歳の方いらっしゃいました。あの方は自動車運転過失致死で刑罰科されましたが、禁錮刑を科されています。労働の義務付けをしていません。懲役刑ではないのです。これが何を意味しているかです。働けない人に働けということを強制するような刑罰は、やはりいけないのです。
次に参ります。
もう一つ、先ほど陸奥宗光の話をしましたが、刑法改正に際し、昭和四十九年に刑法改正草案というのが出ております。そこでもいろいろ議論がなされまして、自由刑を一元化するという議論がありました。しかし、そのときに、最終的な結論は禁錮と懲役を分けて残すということでした。これは、国事犯に対して懲役刑を科すことは侮辱することになるからだということです。松尾浩也先生という法務省の顧問された先生が書いておられますが、国事犯があったので禁錮刑は残ったと書いておられます。これは、陸奥宗光のような人が懲役刑に科せられて刑務所の中に入ったとき、政治家が国を思ってあえて行ったような行為に刑罰が科されたときに、その人に労働を課したり改善のための教育をしたりするのでしょうか。
刑法は国の基です。今後、何年にもわたってこの国の基礎を守っていくわけです。現在の刑法は、一九〇七年に作られた古い刑法で、明治四十年の刑法です。しかし、今までこの刑法はこの国を守ってきたわけです。この刑法を変えるのであれば、それだけの気概とそれだけの哲学を持ってほしいというふうに考えます。
私たちは研究者です。キルヒマンという方が、立法者が法の言葉を三言語れば汗牛充棟の書物がほごになるとおっしゃいました。研究を重ねてきていろいろな本を書いても、先生方が改正するとおっしゃれば私たちの研究は全てほごになります。是非、慎重な審議をしていただきたいというふうに思います。
以上です。

 
○山添拓君 日本共産党の山添拓です。
参考人の皆さん、今日はありがとうございました。
石塚参考人に伺います。
意見陳述、また先ほど来も触れられております国連の被拘禁者処遇最低基準規則、二〇一五年に改訂され、マンデラ・ルールズですけれども、身体を拘束する刑罰は、自由を奪うことによって犯罪者に苦痛を与えるものであって、規律維持の必要から制約を与える以上に強制してはならないという内容になっています。
懲役のように作業を義務付けるのではなく、移動の自由を制限する刑になるべく純化しようと、するべきだというのがこの考えだと思いますが、国連でなぜこのような考えが取られるに至っているのでしょうか。
○参考人(石塚伸一君) それは、改善更生とかあるいは社会復帰という名称でいろいろなそれ以外のことを強制した時代があったし、今でも行われているからだと思います。ある種の思想改造が行われた時代もあるし、日本でも行われています。
例えば、川越少年刑務所という刑務所ありますが、そこの戦前の文集を見たことがあるんですが、反省文を書いているんですけれども、その中で、私は窃盗をしてしまいましたと、野方図な生活をしていて済みませんということが書いてあるんですが、その一つの、一項のところに、私は至らぬところがあって社会主義運動に入ってしまって父母に迷惑を掛けています、ごめんなさいというのが書いてあるんですよ。そういう時代があったし、これからだって来ないという保証はないではないですか。
そういうことは、先ほど、ネルソン・マンデラの名前を使っている理由は、何も南アフリカでのアパルトヘイトだけの問題ではなくて、これからの社会は、どんな政府ができてもそういう特定の思想を強制したりしてはいけませんよと、自由を拘束するのは悪いことしたんだからしようがないけれども、それだけにとどめておきましょうという考え方です。
これ、自由刑の純化論といいます。一九一九年、一八年と言ってもいいかもしれません、ドイツ人のフロイデンタールという人が受刑者の法的地位というのを唱えて、日本では正木先生がそれを紹介しているんですけれども、そういう方向に行かないと、余計な害悪を加えたり強制をしたりするのはいけませんということの決意をして、徐々に進んで現在に至っているということです。
○山添拓君 私も反省文を書かなければならないかもしれませんが。
もう一度石塚参考人に伺います。
マンデラ・ルールズは、社会復帰の支援を国家の側に義務付け、受刑者に対しては社会復帰を目指す処遇に能動的に参加する権利を保障する、そういう発想に立つものと言えると思います。
先ほどの質問で、改善更生の理想はどうあるべきかという質問に対して、働きかけをすることだという御答弁をされていました。そのことについて、この国会で政府は、作業や指導を拒む者に対して改善更生や再犯防止のための働きかけを行うことが不可能になると。義務付けをしないとするとですね、作業や改善更生、義務付けをしないとすると働きかけが不可能になり、拘禁刑を創設する目的が達成できない、だから作業や指導を義務付けることができると、そういう条文にしたのだという説明をしています。
しかし、懲罰を背景に義務付けても、これは自発的な改善更生、社会復帰に向けた取組ということにはならないと思うのですが、改善更生や社会復帰を受刑者の自発的な意思に基づくものとするためには、本来、刑罰の執行というのは、あるいは執行外かもしれませんけれども、どうあるべきなのでしょうか。
○参考人(石塚伸一君) 皆さん、マスクしているじゃないですか。法的に義務付けられているからするのでしょうか。そのことに合理的な根拠があって、皆がしているならしようと思うのではないですか。
刑務所の施設で禁錮受刑者の人も、先ほど今井さんから紹介ありましたように、まあ九割方、働ける人はほぼ全員働いています。ずっと部屋にいたら暇なんですよ。作業に出れば、額は少ないですけど賞与金が出るんです。刑務所の生活って数千円掛かるんですよ。ちり紙買ったり、石けん買ったりとか、切手買ったりとか。やっぱり額は少ないですけれども、それは大事なことなんです。だから、受刑者の人たちは義務課さなくても働きます。
それと、自分が外に出て、薬をやめたいとか、それとか性犯罪犯しちゃうんだけど、そういう人がプログラムを受けた後に職員の方から連絡があって、外へ出た後にプログラム継続できるところ、どこかないでしょうか、紹介してくださいと電話があったりするんですよ。そうしたら、ここ行ってみたらとか。やっぱり、みんな、よくなりたいと思っているんです。
現に、職員の人たちは動機付け面接法という方法を使って、テクニックとして、できるだけ本人たちの意思で来るように、先ほどの話で、やれと言って拒否されたんじゃ、これじゃ効かないんですよ。子供育てていたってそうじゃないですか。自然にその子たちが何か学びたいと思ったら成果が上がるわけです。そういう技術を現場の人たちは考えているし、テクニックもやっていて、もう本も出ていて、練習しているんです。それを別に法で義務付けないといけないというのは、まあそれは多分法務省の偉い方じゃないですか、そういうお答えされた方は。
以上です。
○山添拓君 ありがとうございます。
石塚参考人に伺います。
慎重審議を求める先ほどの刑事政策学研究者の声明では、法案の十二条三項の「拘禁刑に処せられた者には、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、又は必要な指導を行うことができる。」、この規定について問題を指摘されております。
刑法についてはどういうふうに修正をするべきかという提案を今日も御紹介いただいたのですが、刑事収容施設の処遇法については、作業や改善更生に関わって本来どのような改正案が望ましいとお考えでしょうか。
○参考人(石塚伸一君) 先ほど三十条御紹介させていただきましたが、この三十条、実はすったもんだがあってできた規定です。
昭和五十七年になりますかね、刑事施設法案というのが出たときに、これを法案化するときに、法制局の方から、この自覚に訴えという文言は刑罰の執行には適さないので取れと言われて、矯正局の方では頑張られたんですよ。やっぱり、現場でやってみると、受刑者の人たちの自覚に訴えて、あるいは自覚を促すという言葉にしようかと、いろいろつばぜり合いがあったんですけれども、本人たちの意思でさせるということが重要だというのが当時の法制審議会の監獄法改正部会のところの基本的な方向だったんです。平野龍一先生なんかが主導されていた。
これ、なかなか入らないで、その刑事施設法案というのは三回出て廃案になったんです。それが、名古屋刑務所事件で行刑改革の話が出てきて、でき上がったのがこの法律で、見てみたらですね、この自覚に訴えというのが入っていたんです。これ見たときに、ああ、すごいと思った、頑張られたなと思ったんです。
まあちょっとどさくさっぽいところあったんですけど、ただ、これ入ったということはすごく大きいことで、この自覚に訴えという一文字が、先ほど言った、動機付け面接を頑張ってみようよとか、今、刑政という雑誌見ますと、受刑者の人たちに法的な義務付けがされても、義務だからやるんじゃないんだよって、本人たちの意思を尊重するためにはどうしたらいいかという論文だとか何かを一生懸命現場の人たちは考えているんです。本当に真面目なんですよ、みんな。で、その人たちに何かやれって言わないでください。やりますから。
以上です。
○山添拓君 ありがとうございます。
これは、次は今井参考人と石塚参考人に伺いたいと思います。
先日、この委員会で、先ほど石塚参考人の話にもありました川越少年刑務所を視察で伺ってきました。今年の秋から、少年院が蓄積してきた矯正教育のノウハウを活用した若年者ユニットを設けるとのことで、居室棟内に談話スペースを設置するなどして、そういう改修も行われていました。少年法の改正で特定少年と位置付けられた十八歳、十九歳に限らず、二十六歳までの若年者でこうした処遇が適当なものを対象にするというお話でした。
少年院の矯正教育が少年の立ち直りのために大事な役割を果たしてきたという点は私も現場の多くの方から伺ってきました。しかし、少年院でそれができるのは、未成年であって保護すべき対象だからであろうと思います。育ち直しと言われるような教育的な措置かと思います。
懲役や禁錮あるいは拘禁刑というのは刑罰ですので、保護処分とは本質が異なると思います。こうした教育的な措置、これから行われようとしている措置は、法的にはどのような位置付けとしてなされるべきものだとお考えでしょうか。
○参考人(今井猛嘉君) 今の御質問の御趣旨は、若年者に含めていた保護処分的なものが成人との関係でどのように評価されるべきかということでよろしいですよね。
その御質問の背景は私も共有しておりまして、先生がおっしゃったように、二十六歳までは、これは部会の審議で意見が出されましたけれども、脳の発達が止まらず、ちゃんと教育的な効果が高いということが出ております。
他方で、恐らく先生がお考えのように、二十六歳超えた方についてはどうなのかということでありますけれども、しかし、そういう方でも、御自身のこれまでの人生経験に応じて、プログラムの内容の提示によっては、ああ、これをやってみようかなという動機付けは当然できるはずであります。
私は、詳細は存じませんけれども、今、石塚先生がおっしゃったような刑政の論文でもざっと見たことがあります。いろいろなトライアルがされておりまして、例えば高齢者に対してもこのような動機付けによって少しは無銭飲食が防止できるのではないかとか、いろいろなトレーニングありますね。そういうことをやっていくことが、刑罰の目的が再犯の抑止であり社会復帰であるならば、刑罰の内容として、今後、二十六歳超の人にもなしていくべきだと思っています。
ですから、先生のお答えについては、比較的希望を持ってでありますが、成人に対しても適用可能だと理解しております。
○参考人(石塚伸一君) 今、今井先生おっしゃったのと基本的には同じなんですが、最後のところが違いました。刑罰の内容としてというところが違うだけです。今の現場で努力されていることをどういう形で進めていくかの進め方が違うと思います。
私は、行刑法の枠組みの中で、今のこの処遇法の中に入っている規定を活用すればできるというふうに考えております。ただ、その際、少年に対するパターナリスティックな国家の介入と成人に対する本人の意思を尊重した関わり方とは、基本的にプリンシプルが異なるので、法的な根拠は異なるというふうに考えます。したがって、行刑法の位置付けで十分というふうに考えます。
○山添拓君 ありがとうございます。
山田参考人に伺います。
侮辱罪について御指摘ありがとうございました。
やはり、萎縮効果を生じさせない、表現の自由に対する萎縮効果を生じさせない法制度であるべきだと、厳罰化など考える際にも少なくともそのような法制度が必要だと思います。今の政府の答弁としては、刑法三十五条の正当行為によって対処できるだろうというものであります。
一方で、名誉毀損罪における公共の利害に関する特則、政治家や候補者に関する場合など一定の要件の下で違法性が否定されるようなルールは侮辱罪にはありません。この侮辱罪にこういうルールがないことについて、名誉毀損罪と異なって事実の摘示を前提としないためにそういうルールは作れないのだというのがこの審議の中での政府側の答弁でもあります。
こうした見解についてどのようにお考えでしょうか。
○参考人(山田健太君) 今の御質問、複数の論点があろうかと思うんですけれども、まず一番最初に言われたその正当業務ということですけれども、刑法三十五条でありますが、確かに、これによっていわゆる外形的な法の構成要件を満たしていても罰しないということがあるかもしれません。かもしれませんけれども、この侮辱という言葉が曖昧であるのと同様に、この正当業務の判断というのは非常に幅が広いんですね。幅広いです。
例えば、一番この侮辱罪が適用される可能性が今低いと思われている報道機関、真っ当なと言っていいかどうか分かりませんが、報道機関ですら、例えば、今年に、今年というか、まあそうですね、今年に入ってからですね、あっ、去年からですね、去年末以降、いわゆる立入り取材が二件にわたって逮捕されたり、あるいは書類送検されたりという事例が起きてきているわけですね。本当にまさにその取材がこれまでは正当業務行為であるというふうに考えられていて、刑法三十五条の適用の中で、多少の外形的な、まあ不法侵入という言い方をすると非常に何か重たく感じますけれども、立入りが認められてきている範囲があったにもかかわらず、それがある日突然捕まってしまうということが起きるということなんですね。
ということは、今後においても、この正当業務という判断というのは非常に幅があって、実際上、想定していないような形で認められない場合が出てくるんだということについて十分に配慮しておく必要があると。それを考えて、最後の、その免責要件と同じなんですけれども、そもそもその免責要件を設けたのは理由があるわけでして、今日お示ししたこの図もそうですけれども、もうそもそも曖昧なもので萎縮効果が生まれやすいのがこの表現行為であって、この萎縮効果が生まれやすくて限界線まで十分な自由の行使ができない場合を考慮して、なおかつ、より少しはみ出た表現もしてもいいですよというような意味合いをつくっているわけですけれども、そもそも侮辱罪の場合には、形としてそういうものは余り想定していないわけですね。
だから、もし想定をするんであれば、法定刑も高めて、あるいは侮辱の適用対象についてもう少し厳密化もし、その中で公人に対する批判を強めるために免責要件をつくるという考え方もあるかもしれませんけれども、そもそも侮辱のこの対象というのはそういうものを想定していないわけですので、この免責要件をつくれば済むとか、つくることによってこの侮辱罪の、何といいましょうか、今の法改正の問題性が低減するという問題ではないというふうに考えています。
以上です。
○山添拓君 ありがとうございます。
終わります。

 

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